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私の読書日記(5) 政治思想収穫の季節

 

『経済セミナー』20091月号所収後に加筆修正

橋本努


 学部三年生の時分に、私は厚かましくも、当時赴任されて間もない斎藤純一先生(現在は早稲田大学)のお宅までお邪魔したことがある。はたして斎藤先生の下で思想史を研究すべきかどうか。それまで国際金融論のゼミに所属していた私は、異なる分野で大学院へ進学するのかどうか、迷っていたのだった。ところが当時、私は思想の勉強など、ろくにしたことがない。そこでとりあえず当時夢中になって作っていた自作自演の音楽デモ・テープを持参して、師のお宅に上がることにした。

 その音楽を斎藤先生に聴いてもらって、「これで思想史を専攻できるでしょうか」と、ワケの分からない質問をした。すると斎藤先生のアドバイスは、「とりあえず進学してみてよいのでは」という寛大なもので、それで私の人生は救われたのである。今思い返すと、まったく図々しく、恥ずかしいことを尋ねたものである。

 その頃の私は、書物に抗いがたい魅力を感じていた。本に埋もれた生活がしたいと思っていた。そんな多感な頃に先生の書斎を拝見させていただいたのは幸いだった。とにかく壁面という壁面がすべて本棚で、溢れんばかりの本で埋め尽くされている。その空間に接して、私は異様な興奮状態に襲われた。私の将来を決定づけた一つの要因は、斎藤先生の書斎だったわけである。

 それから彼是、二〇年の月日が流れてしまった。そしてこの秋、おそらくこれは斉藤先生の主著となるだろう『政治と複数性』(岩波書店)が刊行された。まず心からお祝いの気持ちを表したい。本書は、「複数の価値の共存と拮抗」という観点から、現代の政治諸理論を再構築した渾身の作である。先生がこの一〇年間に思索してきた論稿をまとめたものとされているが、私が学部三年次から大学院(修士一年のみ)にかけて師に学んだ、アーレント思想の批判的検討が随所に活かされている。あの頃の先生の個人指導で、アーレントの英文和訳を見てもらっていた情景がこみ上げてきた。と同時に、現代社会の問題と対峙しながら、粘り強く思想を紡ぎ出すという先生の営みに、改めて感銘を受けた。現代思想の中心的な争点に、私も応じていかねばならない。

 大局的に言えば、問題は次のような点だ。従来型の社会では、中間大衆が一元的なマス・カルチャーを共有することで、社会統合の機能が担保されてきた。これに対して多元主義者たちは、大衆文化の浅薄さや抑圧性を批判するという、批判の役割を果たしていた。ところが中間層が瓦解してしまった現在、多元主義者たちは、社会統合の原理を新たに提案しなければならない立場にある。もはや中間大衆の文化は、脆弱だからである。では新たな社会統合原理とはなにか。多元主義者にとってそれは、愛国といった共通価値へのコミットメントではなく、むしろ排除されてしまいがちな弱者たちの「連帯」でなければならない。ではその倫理とはどんなものか。これがいまの福祉国家論に求められている思想的課題だ。斎藤先生はこの問題に正面から取り組んでいる。今後の福祉国家論議に、大きな足跡を残したといえるだろう。

 また類書として、最近、ウィリアム・コノリー著『プルーラリズム』の翻訳(岩波書店)も刊行されている。こちらもきわめてアクチュアルな哲学だ。一神教に身をゆだねる者たちは、異教徒を悪魔とみなすことがしばしばある。しかしその心理的傾向は、自身の内部のデーモンを、他者に投影した排他主義ではないか。対するコノリーは、多元主義の立場に立って寛容を訴える。ただコノリーは「人間内部の悪」をどのように処理しているのか、ちょっと気になった。9.11テロ事件以降、キリスト教とイスラム教の文明対立が危惧されるなか、多元主義による和解が求められている。しかし仮に宗教対立が和解できたとしても、「悪」の問題はなくならない。悪は多元主義にとっても、厄介な問題でありつづけるだろう。コノリーの思索を踏まえて、その先に知の冒険をしてみたい。

 むろん、アメリカという国は、宗教的にも民族的にも、多元的な文化を誇る国である。その多元性の歴史を、共和主義と多元主義の対立に即して豊かに描いた著作、M・ウォルツァー著『アメリカ人であることはどういうことか』(ミネルヴァ書房)は、味わい深い好著。ウォルツァーは、共同体主義(コミュニタリアニズム)の論客として知られる。けれども彼のいう共同性は、移民排斥のナショナリズムではない。アメリカ人としての誇りは、公私にわたって多元的なアイデンティティを保持することであって、そのなかでなお、政治的には劣位にある民族/宗教的アイデンティティの形成を支援することだと論じている。そのためには、一部のコミュニタリアンが批判する「負荷なき自我」を、「良心の自由」の観点から支持すべき、との見解も述べられていて興味深い。

 ウォルツァーの思想が面白いのは、私たちの道徳意識が「情念の闇」から生じているというその感情の襞を、鋭く抉り出している点だろう。『政治と情念』(風行社)は傑作だ。情念を忌み嫌う理性派の市民主義者たちが、いかに胡散臭いか、ということを明らかにしている。政治とはそもそも、不可能性が前提である。例えば、自発的なアソシエーションは、国家の内部では不可能である。そこで私たちは、いかにして非自発的なアソシエーションを助成していくのか。それが問われる。あるいは「討議民主主義」の理想は、達成不可能であるとして、では私たちは、いかにして政治に情念を動員するのか。あるいは敵意・対抗・闘争の要素を動員するのか。こうした活動家的な実践の問いこそ、ウォルツァーの本領なのである。

 彼の結論は往々にして平凡かもしれないが、しかし凡俗な日常にも「あえてこうすべき」という、パワフルな意見に勇気づけられる。別の著作『道徳の厚みと広がり』は、厚い道徳の言語こそ活動の原動力となるとして、道徳的に厚みのない制度的リベラリズムが人間を鼓舞しない、と説得的に論じている。

 そしてウォルツァーの最大の貢献は、なんといっても戦争論。二〇〇八年になって、彼の大部の主著『正しい戦争と不正な戦争(第三版)』と、小著『戦争を論ずる』(風行社)が相次いで翻訳された。前者は、ホロコーストからヒロシマ、ハンガリー革命、ヴェトナム戦争にいたるまで、世界のさまざまな戦争を素材に、一貫した戦争哲学を展開している。まれにみる労作である。後者の小著は、9.11テロ事件や二〇〇三年のイラク攻撃に対する分析も所収されており、ウォルツァーの診断力の鋭さに、私は何度も目が醒めた。これら二著で、ウォルツァーは戦争に「二つの価値判断」があると論じている。戦争をするかどうかの判断(ユス・アド・ベルム)と、いったん開始してしまった戦争をどう戦うかについての判断(ユス・イン・ベロ)である。この二つの基準から、ウォルツァーは例えばイラク攻撃の正当性を論じているが、はたして彼の価値判断は正しかったかのどうか。

 彼は間違っていたかもしれない。というのもアメリカは、イラク攻撃の前に、国連査察団の報告を辛抱強く待つべきだったからである。ただあの時のアメリカ人が、総じて日常的な倫理感覚を麻痺させていたことも理解できよう。ウォルツァーは小著のなかで、「最高度緊急事態は共同体的教義である」と論じているが、彼はそのような緊急事態を、もしかするとコミュニタリアンの立場から希求していたのかもしれない。緊急事態においては、特別な倫理が求められる。しかし緊急事態において見失われるのは、「現実が決して緊急事態ではない」という事実にほかならない。緊急事態でないとすれば、私たちはどんな戦争判断をすべきなのか。この問題を徹底的に考える他に、戦争を抑止するための思考法はないだろう。